済松寺ものがたり おなあさんと三代将軍 作浜祥子 絵・うえだいずみ

おなあさんおなあさんってだれでしょう。

済松寺の左手の大イチョウのむこうに、おなあさんのお墓があります。上がまるくなった、人の背たけよりだいぶ大きい墓石で、もう表面の文字はほとんど読めませんが、目をちかづけて見ると「当山開基祖心大禅尼之塔」とあります。「済松寺の産みの親、祖心尼の墓」という意味です。祖心尼は「おなあさん」と呼ばれていました。
幼いときに父をなくしたおなあさんは、前田家の養女として今の石川県で育ち、がまん強い、考え深い人に成長しました。
ところが、結婚し子供にも恵まれながら、どういうわけか離縁されてしまいます。
もう、どこへも帰るところがありません。

おなあさんは、ひきよせられるように、なつかしい父の建てたお寺、京都の妙心寺・雑華院に向かいました。
そこで、初めて耳にした法話は、傷ついた心をやさしくつつんでくれました。しおれかかった花が息をふきかえしたのです。 叔父の一宙和尚について禅の修行にはげむうちに、おなあさんは、生きていくための宝ものを見つけたのでした。
二度の結婚で、おなあさんは三人の子の母になりました。
でも、知りたがりやのおなあさんですから、ひまをぬすんでは、書物を読みあさり、心の問題を真剣に考え、禅の修業も続けていきました。

お地蔵様縁あって、江戸城の大奥に出入りするようになったとき、おなあさんは五十代半ばになっていました。大奥というのは、将軍の婦人や、お世話をする女たちのいるところです。
きらびやかな装いのかげに、悲しみを抱えた人がたくさんおりました。
おなあさんは、つらかった日の自分を思い出すと、だまってはいられません。禅の話にも力が入ります。
そんなおなあさんを頼って、こっそりお武家さんが相談にくることさえありました。

時の将軍徳川家光は、しだいに禅の道にひかれていきます。十六歳も年上のおなあさんを姉のように慕い、ついには済松寺の建立を思い立ち、守りをおなあさんに頼みます。
そして「たとえ、我が身は日光にほうむられても、魂はこの済松寺に」と、ことばを残し四十七歳でなくなりました。
将軍家光公と尼のおなあさん。
ふたりを掬びつけた一本の糸。これこそ禅の心であり、済松寺はそのあかしなのです。
消えかかった墓石の文字が「おなあさんを忘れないで」といっています。

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