済松寺の歴史
済松寺全景

蔭凉山済松寺は、徳川三代将軍家光公が、祖心尼のために建てた臨済宗の大禅院です。

家光公は、全面的な信頼を寄せていた祖心尼に対し、寺を寄進することを思い至りました。そして、自ら牛込の地にやってきて、馬上から鞭によって領地の範囲を示したと伝えられています。それにより、幕府祐筆の大橋龍慶屋敷跡を拝領し、完成したのが済松寺です。

家光は宗門と徳川家が共に栄えるようにとの願いから、臨済宗の祖・臨済禅師の済と徳川家の祖・松平の松をとって、正保3(1646年)年十二月、済松寺と名づけました。また大樹となって天下万民の蔭凉(涼しい木陰)たらんとの願いを込め山号を「蔭凉山」と名づけました。家光公は晩年に「自分の遺骸を日光に葬るとも、心は済松寺にある」と述べ、厚い信仰心を吐露されました。

長い年月の間には、多くの苦難もありました。宝暦年間には大火事に類焼し、ほとんどすべてが灰となりましたが、九世大鼎和尚の働きで、幕府から一千両の寄進を受けて見事に再興。しかし、明治維新では廃仏毀釈の激しい運動により、寺は徹底的に破壊されつくしてしましました。長い荒廃から立ち直りかけたものの、昭和20年5月25日に空襲でまたもや炎上。幾度とない苦難の連続でしたが、法灯は消えることなく、再び諸堂が建立され、今また往時を彷彿とさせる境内のたたずまいとなっています。

本堂

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