祖心尼は、1588年 伊勢国・岩手城主 牧村利貞の娘として生まれました。 やがて、成長したおなあは小松城主・前田家へ嫁ぎ二人の男の子を授かります。しかし、平穏な日々は続かず、突然、前田家より離縁を申し付けられてしまいます。ひとつにはキリシタン大名である高山右近との親交があったためとも言われていますが、その理由には諸説あり定かではありません。 |
おなあはまだ幼い下の子供を連れて前田家を離れ、生前に父が建立した京都の妙心寺「雑華院」へ身を寄せます。絶望のどん底で悲しみに暮れる彼女をやさしく包んでくれたのは、雑華院住職で叔父の一宙禅師の言葉でした。‘ 過去にとらわれず、過去にこだわらず、今を生きることだ ’------ それは、おなあと「禅」との出会いの瞬間でした。 |
やがて、再婚の話が持ち上がりおなあは会津藩・蒲生家の重臣 町野幸和のもとへ嫁ぎます。彼女は新たな土地で重臣の妻として、様々な大役を果たしてゆきました。しかし、再び悲劇がおなあを襲います。突然、藩主である蒲生忠郷公が亡くなったのです。跡継ぎのいない蒲生家は、お家取り潰しとなってしまいました。 |
藩主を失い、おなあの一家は江戸に身を寄せます。浪人としての暮らしは決して楽ではありませんでした。しかし、江戸には古今東西から集められた多くの書物がありました。おなあはたくさんの書物に触れ、多くの知識と深い教養を身につけてゆきました。 当時、世は三代将軍・徳川家光公の時代。江戸幕府は隆盛を極めていました。やがて、おなあの叔母で、大奥を取り仕切っていた春日局からの遣いがおなあの元を訪れました。 |
華やかな大奥。 そんなおなあに、家光公も厚い信頼を寄せていました。また、沢庵禅師とも親交がありました。祖心尼の著書「挙一明三」には、将軍・家光公、沢庵禅師、祖心尼の禅問答の様子も記されています。やがて、将軍家光公の勧めもあり、1643年 おなあは出家し「祖心尼(そしんに)」となりました。 絶大な権力を誇る徳川幕府。その頂点に立つ将軍家光公。 家光公の死後、祖心尼は大奥を去りました。 そして、延宝3年(1675年)3月11日。88歳で祖心尼は静かにこの世を去りました。 |